もうすぐ城門が見えるというところで、セイロンは娘の白い手を離した。
「なんだか急に静かになったね」
少し声を潜めて、フェアは言う。
龍人の里とはいっても、その領内の大半を占めるのは雑多な種族が暮らす繁華な街だ。
外門は人間の都や鬼人の里へと続く大街道と接しており、旅人はもちろん、交易に立ち寄る行商の者も多い。
子ども等のはしゃぐ声、商人達の呼び声、馬の嘶きや様々な生活の音が、日夜街中を満たしている。
その目まぐるしい喧騒の中を通り過ぎ、霞む霊山の方角へ足を進めると、やがて周囲は深閑とした竹林に変わる。
「この先へ行ける者は、限られておるのだよ。龍人でも童は立ち入ることができぬしな」
「子供も? 素敵な場所なのに、もったいない」
「我らはな、成人してより後が長いのだ。それまでは人間とさほど変わりなく歳を取るのだよ」
娘はしなやかな緑の節に手を触れて、頭上を覆う細く薄い葉のさざめく音を楽しんだ。
見上げた拍子にフードが滑り落ち、銀の髪が弧を描いて眩しく流れる。
重なる枝葉に細やかな欠片となった陽光がいくつも落ちて、彼女の放つ柔らかな光に溶ける。
さざ波に似て打ち寄せる、強く鮮やかな、それでいてどこか懐かしい安らぎに満ちた魔力の波動。
「だから、余計に耐え難いのだろうな」
声音に混じった苦い溜め息に、娘はセイロンの横顔を見た。
こんな風に、心の機微を察する優しさは変わらない。
「門内には、時を進める仕掛けがしてある。人間に同じとまではゆかずとも、せめてその命を近しく感じられる程度にな」
細い路の先に、朱く塗られた門と三対の台灯籠が現れる。
高くそびえる塀に囲まれ、屋敷はその屋根さえも見えない。
「意外、かね?」
娘は素直に頷いた。
「竜へ至ろうとするくらいだから、あなた達ってもっと達観してるのかと思ってた」
「我ら龍人は神ではなく、人の子なのだよ。所詮は人にすぎぬ心で、種の限界を遙かに超えた時を生きることはできぬのさ」
結界を守る灯が、主の気配に大きく揺らめく。
セイロンが歩み寄ると、それだけで門は軋んだ音を立て左右へ開いた。
「倦み疲れた先祖がイスルギ様に願って得た逃げ道が、この宮殿というわけだ」
変わる時の流れがそうさせるのだろう、城内の景色は透明な水底を覗くように歪んで見える。
門の手前に立ち、遠く訪ねて来た客人を振り返った。
「ここより先へはそなたの意思で行くがよい」
フェアはただ小さな笑みを浮かべたきり、僅かなためらいもなく門を潜った。
己が身に持つあまりにも長い歳月を、少しでも他の廻りと合わせたい。
そうした願いを、彼女もまた深く想っているのだ。
その凛とした背を追いながら、セイロンは長として迎え入れるしかない自身に苛立ちを覚え、空になった掌を握り締めた。
龍姫が見付かったあの時、気が向けば訪ねるのもよかろうと、それだけを言って別れた。
彼女には彼女の選択があるだろうと、自身で自らについてを知った方がよいのだと、そう思ったからだ。
だが、そうして突き放すことが、彼女にとって本当に最良の道だったのだろうか。
結果はどうだ、痛々しいまでに気を張り詰めて、泣くこともできないままの彼女ではないか。
「……フェア、」
「中は賑やかだね。姿は見えないけどたくさんの気配がする」
言い掛けた言葉を遮って、娘は笑う。
あの快活な少女が、今は艶さえ帯びた笑みを見せる。
いっそ、攫ってやればよかった。
その身に授かったあまりに長い時の残酷さを知る前に、何もわからないでいる彼女を攫ってしまえばよかったのだ。
「ねえ、セイロン?」
結界を潜り抜けた彼女は、ふと身を寄せて訊ねる。
「さっき、子供はここに入れないって言ったよね。もしかして、あなたも小さいときは独りだったの?」
一瞬、言葉が出ない。
まるで初めて会ったようだと、彼女は言った。
その通りなのだろう、ここにはもう無邪気なだけの少女はいない。
「覚えてる? こんなに安らいだ気持ちで過ごせたのは初めてだって、わたしに言ってくれたでしょ。ずっとそのこと、気になってたんだ」
あの優しい光に満ちた場所を、忘れたことはない。
僅かな、この先の永すぎる年月を思えばほんの瞬く間に過ぎない僅かな日々の中で、これ以上はないほどの安らぎを得た。
掛け替えのない仲間達を、彼女が与えてくれた暖かく満ち足りた平穏なあの日々を、一時たりと忘れたことはない。
「ねえ、長っていろいろキツいんじゃない?」
「まあ……そうだな」
「じゃあさ、久しぶりにわたしの料理食べてみてよ。元気出るよ?」
何者にもけして傷付けさせないと、命に代えても守り抜くのだと、あの約束が未だ続いていると彼女は知っているのだろうか。
結局、何もできないままに別れてしまった。
自分を守護する者さえ自身の手で掴み取る、そういう彼女だと思っていた、確かにそれもある。
だがそれ以上に、自分は恐らく成り行きを彼女に委ねることで逃げたかったのだ。
人ひとりが生きていくその先の全てを負うと決めるには、自分はあまりに若く、彼女はまだ幼すぎた。
「改めて歓迎しよう。古き妖精の血を引く娘、フェアよ、よう我らがイスルギ様の御許龍人の里へ参られた」
「イスルギ様の加護を受けし貴き龍人族の御長殿、セイロン様。御親切心より感謝致します」
娘は握った右手を左手の掌へ当て、もう一度武人の礼をとって見せる。
今、長としてそれを受ける自分と彼女は、あの頃からなんと変わってしまったのだろう。
互いの容姿はそのままでいながら、互いへ向ける言葉の、それぞれの立場のなんと変わってしまったことか。
「……ただし、心穏やかに、とは言えぬ。この地は戦乱の中にあるのでな。そればかりか、そなたの武芸の腕に頼ることすらあろう」
すまない、と、セイロンは、勤めて冷静に言い放ったつもりでいた。
「ちょっと待ってよ!」
だが、娘はその中に何を読み取ったのか。
「わたし、あなたを守りに来たのに!」
掴みかかる勢いで迫る彼女の目が、激しい怒りに揺れている。
「……はあ?」
つられて、自分まで昔のような反応をした。
そうだ、元来己は不器用で単純で、あからさまに想いを表にする質だった。
長としての責を果たすことばかりに気がいって、自身の感情など久しく忘れてはいたが。
「あなたのそういう、自分だけで溜めこんじゃうところって嫌! わたしべつに、他に行くところがなかったわけじゃないよ? 選択肢はあったけど、シルターンには争いがあるって聞いたから、だから選んだんだよ」
この娘は、何一つ変わっていない。
己という存在を知り世界の多くを知り、恐らくはあの日去った男の真意すら、今の彼女にはわかってしまっているというのに。
それでもなお彼女は、この地を選んだと、自ら選び取ったのだとそう言うのだ。
「あれからね、みんなそれぞれの道へ向かってがんばってて……わたしはね、わたしの夢にがんばるより、誰かの力になりたかった」
フェアは、泣いていた。
その涙が頬を伝い落ちるのを、セイロンはただ棒のように突っ立ったまま見守っていた。
「わたし……」
「すまなかった」
動作より先に、言葉だけが零れた。
いつもそうだ。
あの日々から、自分は何一つ変われてはいない。
掛け替えのない仲間だと思った。
それ以上に、その優しい笑顔に、その眩しさに目の眩む思いがした。
あまり想いが深すぎたから、自身の身勝手に巻き込むことを厭うたのだ。
「謝らないでよ! 誰かが悪いわけじゃないじゃない。それとも、悪役になりたいの?」
「ああ。そうすればよかったと後悔しておるよ」
「セイロン……」
娘は、驚いて目を見張る。
それから、まだ泣きながら笑い声をあげた。
「やっぱりセイロンって……」
後から後から、留めどなく涙を流しながら、それでも気丈に自身を支えて言う。
彼女と出会う前は、泣くという行為を弱さと決め付けることこそなかったとはいえ、強さを感じるなどあり得なかった。
だが彼女が自身を響界種だと覚ったあの夜、泣くという行為はただ弱さの顕れではないのだと、逃げるためではなく立ち向かうための涙もあるのだと知った。
彼女は強い。
そして、強さとは脆さと常に同一なのだ。
己の弱さを知った今なら、その持てる力の全てで彼女を守ることもできるのだろうか。
「ねえほんとはさ、わたしが来てよかったでしょ?」
フェアは、濡れた頬を押さえ少し恥ずかしそうに笑う。
涙を拭うでもなく目を背けるでもなく、ただ見守るだけの視線にも臆することのない、その悲しいほどに孤独な魂を、己の懐へ入れてしまってもいいのだろうか。
「わたし、あれからストラだってけっこう極めたんだから」
「ほう……それは聞き捨てならぬな。師匠は誰かね?」
娘は、返事の代わり嫣然と微笑んだ。
「気にしてくれるの?」
この娘を愛するだろうと、そう思った。
独り数えるにはあまり長すぎる時の中で、これから巡り逢うだろうその誰よりも、きっとこの娘を愛するだろう。
その始まりは、あの日あの穏やかで優しい場所に芽生えたものなのかもしれない。
それでも、真の意味で一個の魂として他の一つを求めるならば、それはこの時これから新しく始まるのだ。
「……何もかも、そなたの言う通りさ、フェア」
セイロンは、敢えて数歩の距離を残したまま、右手だけを差し延べて言った。
「これからは万事我を満足させてくれると、期待してもよいのだろうな?」
それほどの時を待つこともなく、娘の白い手が己の掌に重なる。
その手を、今度はけして自ら離さぬように、硬く強く握り締める。
「もちろん」
先刻まであった躊躇いは忘れたかのように、娘は一際蠱惑的な笑みを浮かべて応えた。
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