春嵐
暗闇の中で、泣きながら目を覚ました。
夕方から強くなった風が、窓やドアの隙間でか細い悲鳴を挙げている。
吹きつける雨音と地響きのような遠雷に、フェアは身を震わせて起き上がった。
父親に置いて行かれたのは、ちょうど11年前の今日だ。
あの日は穏やかな夜で、雲ひとつない空にくっきりとした満月が貼り付いていた。
ベッドを降りて、ランプの灯を大きくする。
不安定な明かりはゆらりと部屋を満たし、窓の外の闇を冷たく恐ろしい怪物に見せた。
誰でもいいから、お願い返事をして。
部屋着を羽織って、真っ暗な廊下へ飛び込む。
こんな所にはいたくない。
一緒に行きたかったのに。
自分以外の誰かがいることを確かめたくて、足元も見えない闇の中を手探りで進んだ。
足音も、知らず漏れた嗚咽も、渦巻く風の音と枝葉の屋根を打つ音に隠される。
長い廊下に意地悪をされているようだ。
どうして邪魔をするの。
どうして連れて行ってくれないの。
二つ目の角を曲がって、蒼天の間の前へ出る。
こうして壁を隔ててしまえば、魔力の流れを感じることもできない。
彼のように気配で知ることもできない。
壁に額を付けて目を閉じる。
大丈夫、わたしは独りじゃない。 あの日とは違う。彼はまだここにいる。
まだ?
ふいに、体を包む闇が寒気を帯びた。
いつかいなくなってしまうなら、それが昨日のことでも明日のことでも、時間に何の意味があるのだろう。
わたしはまた独り残されて、誰もわたしを呼ぶ人はいない。
隙間から入り込んだ夜風は湿って重く、喘ぐ息を詰まらせる。
誰もわたしを見つけないから、わたしもきっとここにはいない。
ここには誰も、わたしもいない。
泣いても叫んでも、それは虚ろな闇と同じ。
声を挙げる前に、けれど眩しい白光が走り、一際激しい雷鳴が轟いた。
耳を覆って、息を飲む。
焼き付けられた光に眩む視界の中で扉が開くのを、フェアは不思議な気持ちで見た。
室内から溢れた独特の波動が、冷えた頬を柔らかく撫でる。
「近くへ落ちたのではないか?」
橙色の柔らかな明かりに照らされた訪問者へ、セイロンは静かに言った。
黒い寝衣に着替えているから、今の雷で起きたのだろう。
けれど自室の前に佇むフェアを怪訝に思う風もなく、まるで会話を続けるような口調に聞こえる。
「こう騒がしくてはかなわぬな。これ、店主殿」
「……えっ」
「何か温かい飲み物でも用意せぬか」
暖かな掌が肩を押して、フェアの体をロビーの方へと押しやる。
「あ、うん……」
促されるまま食堂を通り抜け、厨房に入った。
セイロンは手にしていたランプをカウンターへ置き、棚から茶葉の入った缶をひとつ選ぶ。
寝る前に沸かしておいたポットの湯は、まだ充分な熱さだったのだろう。
少しぞんざいともいえる手付きで茶を煎れ、結局することもなく立ち尽くしていたフェアにカップを差し出した。
立ち上る湯気に乗って、花の香りが柔らかく広がる。
淡い琥珀色をしたこのシルターンの茶は、シャオメイがくれたものだ。
カウンターのイスへ並んで腰掛けた龍人を、フェアは浮游する意識のままぼうっと見つめた。
この世界では異質な朱い髪と瞳、一対の角。
無機質な陶器に似た、冷たい肌の色をした横顔。
陽の光からも人の血潮からも遠く思えるのに、その掌は力強く大きく、いつもフェアの指より温かい。
「なんだ、そなたまだ眠っておるのか?」
見つめるフェアの視線をそ知らぬ顔で流すのに飽きたのか、セイロンは大袈裟な溜め息をついて振り向いた。
覗き込む朱い瞳が、真っ正面からフェアを捕らえる。
からかいと疑問、それから僅かな驚き。
ああ、何か話さないと。
「セイロンは……」
自分が何を言っているのかもわからないまま、ぼんやりとフェアは口にする。
「どうやってこの世界へ来たの? 長くかかった?」
「いや、界の移動そのものはあっという間さ」
荒れ狂う風が扉を叩いて、蝶つがいが軋んだ音を響かせる。
様子を見に行くつもりなのだろう、セイロンはランプの灯を備え付けの明かりへ移した。
まるで自分の家のように慣れた仕種だ。
「ほれ、無限回廊の最奥部で空間転位に巻き込まれたことがあったろう」
「うん」
「あれと同じだ。ただ、出口が龍神の谷だったのでな。そこからラウスブルグへ行き着くまでは、まあそれなりの道程だったよ」
けれどこうして日常に溶け込んではいても、ここは旅人を泊める宿屋で、彼はただその一人でしかない。
「またそこから帰るの?」
「龍姫様次第、とはいえ恐らくはそうなるであろうな」
いつかはここから出て行く。
また、自分はたった一人きりでこの場所に残される。
ランプを手にして、彼は食堂を扉の方へと歩いて行く。
同じ部屋の中なのに、ほんの数歩離れただけで見えなってしまう気がする。
遠離る背中へ、無意識に手を伸ばしていた。
部屋着の袖についたボタンが取っ手を引っ掛けて、空になっていたカップがカウンターを滑り落ちる。
金属製の容器は、やけに甲高い音を立てて床へ転がった。
頼りなく揺れる灯りは弱く、足元は仄暗い。
テーブルの下には、外と同じ深く濃い闇がわだかまっている。
本当に、まだ眠っているのかもしれない。
そうでなければ、どうしてこんなに怯えて立ち上がることさえできずにいるのだろう。
「……共に行くか?」
滲んだ視界の中で、骨張った長い指がカップを拾い上げる。
問い掛ける代わり、フェアは数度瞬いた。
知らず流れていた涙がぱたぱたと膝へ零れる。
「いい加減に目を覚ませ」
セイロンは濡れた頬を軽く叩いて、そのまま掌に包み込んだ。
「そなたはもう童ではないのだぞ。どこへなりと思うがまま自在に行けよう。父君を追い掛けるも自由ではないか」
目許を拭う指は、やはりじんわりと温かい。
その伝わる熱でようやく、曖昧に浮かんでいた意識が引き戻される。
「あんなダメ親父、今さら追いかけたくなんかないよ」
声音もいくらか違って聞こえたのだろう、セイロンは満足そうに笑うと手を離した。
「ならばいつまでも幼心に惑わされるな」
「セイロン」
フェアは、温もりがなごり惜しくてその手を追った。
驚いた顔をして、けれどそのまま振り解かずにいる指を握り締める。
「さっきセイロンが訊いたのはさ、それってわたしも一緒にって、そういう意味なの?」
自分のものではない、優しい熱。
冷えた手の中には、確かにここにいる人の温もりがある。
この場所にいて、自分を見ている確かな存在。
見つめて、話しかけて、触れればこんなに温かい大好きな人。
「そうだと答えたら、そなた本気で鬼妖界へ渡るつもりなのかね?」
「わたしはどこへでも行けるって、あなたが今言ったんじゃない」
離したくない。
許されるというなら、ずっとこの手を繋いだままでいたい。
握る指に力を込める。
「……しかし、よく考えた方がよいと思うがな」
セイロンは、ふいにからかうような目をした。
それまではただ任せていた手を、急に握り返される。
「そなたはもう童ではない、とも言ったはずだぞ」
低く笑いながら、引き寄せたフェアの指先へ口付けた。
「セ、セイロン!」
唇が掌を伝って、手首に触れる。
邪魔な袖を押しやり、晒した肌を柔らかく噛む。
「っ!」
途端走った甘い痺れに、フェアは思わず身を退いた。
龍人の男は捕らえた腕をあっさりと手放し、代わり顔を寄せて耳元で言う。
「故郷を捨ててまで慕う娘を、ただ眺めるだけの間抜けはいまいよ」
甘さを含んだ、囁きに近い声。
温かな吐息が耳朶をくすぐる。
今度こそ、はっきりと目が覚めた。
真夜中に二人きり、それも寝間着姿で向き合っている自分にようやく気付く。
イスから転げ落ちるように立ち上がるフェアに、セイロンは打って変わって陽気な笑い声を挙げた。
「これ以上嫌われぬうちに、我は退散するとしようかな」
テーブルへ置いたランプはそのままにして、暗い廊下へ歩いて行く。
何も持たずに来た自分を、彼はそうして甘やかしてくれる。
「嫌ってるわけじゃ、ないけどっ」
「無論、わかっておるとも」
振り返った彼の口元は、冗談めかした笑みの形だ。
「だからな、フェア。まだ風は強いようだが、もう部屋へは来てくれるなよ」
こんな口調の時は、いつもなら名前を呼んだりしないのに。
足音が去ってがらんとした食堂に残されても、もう寂しさはどこにもない。
部屋の隅にわだかまる闇も、窓の外に揺れる陰も、恐ろしいと思っていたのは遠い昔のことに思える。
風の音や雨の音、激しく響き渡る雷鳴でさえ、まるで別の世界の喧騒だ。
今ベッドへ潜りこんだら、きっと穏やかに眠ることができるだろう。
けれど、もう少しこのままでいたい気がして、フェアはもう一杯香り高い飲み物を煎れた。
同じシルターンの茶葉でも、アカネやシンゲンが好むものとはまた違う。
カップの中を覗きこむと、柔らかに立ち上った湯気が頬に触れる。
何色をした花なのだろう。
春に咲くのだろうか。
優しく華やかなその香りは、いつか見ることができるかもしれない彼の故郷を想わせた。
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