初めまして
あれからもう十二回も季節が巡ったけれど、セイロンとわたしの姿は、あの頃とそれほど変わってはいない。
「他ならぬ長たる我に大恩あるそなただ。里の者とて子々孫々までも留まることを喜ぶであろうよ」
そう言ってくれた彼にお屋敷までの道を案内されながら、
「セイロン、あの、家族はいるんだよね?」
わたしはつい、おかしなことを訊いてしまった。
初めは、本当にただの興味だけ。
これから暮らすことになる環境を知りたかった、それだけだと思う。
「ふむ。腹違いの弟妹から始めるとして……どこまで並べればよいのかね?」
けれどふざけた調子で応える彼の横顔を見ていたら、そういえばあんなに一緒に過ごしていながら、まだ一度も尋ねたことがなかったんだと気が付いた。
あの頃のわたしには、お互いを信じられる仲間だというだけで充分だったし、そこまで踏み入る勇気も必要もなかった。
「あ、違うの。そうじゃなくてさ」
けれどここにいる今のわたしには、そのどちらもある。
それにもし彼がはぐらかしたって、どうせもうすぐ答えはわかってしまうことだ。
そう思うと、疑問は自分でも驚くほどはっきりした言葉になって外へ出た。
「奥さんは? もう跡取りとかいるの?」
「ああ……」
少しだけ、セイロンは意外そうに眉を上げる。
どういう意味の驚きだろうと、狡くなったわたしは頭の隅で考える。
「それがな、とんだ放蕩者で未だ身を固めてはおらぬのだよ」
いかにもその言葉通りだと思わせる笑い声を挙げてみせるけれど、生真面目すぎる彼のことだ。
本当は役目を果たすのに忙しくて、自分の気持ちには構ってなんかいられなかったのかもしれない。
周りのことには聡いのに自分に関してはまるでダメ、というのはよくあることで、この人もそうだった。
無理をする友人のことは気にかけていたけれど、自分には少しも優しくしてあげない。
ただでさえいらない責任まで背負ってしまう人なのに、長の立場なんてそれこそ雁字搦めなんじゃないかと、ちょっぴり心配になってしまう。
もちろん、そんなことで潰れてしまうような人ではけしてないけど。
「いや、そなたには先に詫びておかねばならぬな。おそらくいらぬ誤解を受けるぞ」
「それって、あなたが向こうで悪さした娘って思われるとか?」
「むう……まあ、それもそう遠くはないが……」
「信用されてないんだ?」
失敬な、とでも言うかと思ったら、セイロンはひどく穏やかな笑みを浮かべた。
どうしてこの世界へ来たのかと、理由を尋ねたりはしない。
そちらはどうなのかと問い返して、置いてきた温もりをわたしに思い出させたりもしない。
ただ、静かで優しい微笑みを向けただけ。
並んで歩くその横顔は、いつも傍にいたあの頃と同じ高さだ。
わたしの背が伸びたのと同じくらい彼の背も伸びて、だから見上げるわたしの目に映る景色は以前と同じ。
ふいに、風の色が変わった気がして、わたしは立ち止まってしまう。
懐かしい暖かさ。
走り抜ける目に眩しかった陽の光、食卓に揺れる灯、切り株を照らした月の明かり。
小さな手を握って見上げた満天の星空、部屋を満たす皆の声。
この切ないような幸せがなんなのか、わたしはよく知っている。
これは、故郷の温もり。
故郷の風。
こんなに、こんなに遠く離れているのに。
この人の中にあの頃のわたしがいて、わたしの中にあの時の彼がいるから、二人の間を繋ぐのは懐かしい楽園の風なのかもしれない。
けれどそれは逆さから見たら、二人を繋いでいるものはそれだけだということ。
立ち止まってしまったわたしを振り返るのは、知らない人だ。
「時に、フェア……殿」
龍人族の長はおかしな呼び方をして、なんだか不機嫌そうな顔になった。
それはわたしに怒っているわけではなくて、たぶん自分に苛立っているんだろう。
こんな表情をしたことがあったかなと、わたしは思う。
気付かなかっただけかもしれないし、彼が変わったのかもしれない。
「どうしたの? 急に改まって」
訊いてはみるけど、答えは返事がなくてもわかる。
「なに、そなたがあまり淑女然としておるのでな。呼び捨てるには気が退けた」
苦い笑みを含んだ言葉は思った通りだったけど、ありのままを伝えてしまうこの人は、やっぱりわたしの知らない誰かだ。
それともこんな簡単なことに気付けなかった自分を、わたしが思い出せないだけなんだろうか。
「あなたがいいなら、そう呼んで」
彼は軽く目を見張る。
「だってわたし達、久しぶりっていうより初めましてっていうみたい」
昔のわたしならきっと、嫌だと言ってあなたを余計に困らせたけど。
とても大切な仲間だと、どんな苦難も乗り越えて行けるかけがえのない仲間だと、そう思った。
それは、時間や距離ではけして消えたりはしない。
だからわたしはこの世界へ来ることを選んで、彼は何も訊かずに迎え入れてくれる。
それなのにわたし達は言葉のひとつ、動作のひとつに驚いたりして、まるで初めて逢った同士みたいだ。
「でもわたしはセイロン、がいいな」
よろしく、セイロン。
鬼妖界風にお辞儀をしてみせる。
フードからこぼれた髪の一房が、彼の指を撫でて流れる。
そのまま顔を上げたら、思いの外近い場所から赤い瞳がわたしを見ていた。
こんな風に見つめ合って、昔だったらどうしたか思い出そうとしたけれど、やっぱり思い出せない。
困った顔をするかわり、にっこり笑った。
何の計算もなく笑うわたしを期待していたなら、ごめんなさい。
けれどあなたは知らない男の顔をして、
「これでは誤解をとくにとけぬよ」
少し掠れた声で呟やいた。
その響きの奧に何があるのかも、今のわたしにはわかってしまう。
急に、恥ずかしくなった。
うつむいて頬を染めるなんてことは、もうできない。
でも、こんなに変わってしまった自分を見せつけるほどには、変われなくて。
わたしはただ、聞こえない振りをする。
なんだか、昔のあなたを真似ているみたい。
あの頃のわたしは置いていかれることを怖がるだけの幼い子供で、本当はどちらが通り過ぎていくのかなんてわからなかった。
苦しくて悲しくて、でも宝物みたいだったあの日々が過ぎて、みんなそれぞれの場所へと出て行く。
一人ずついなくなって、最後は誰もいなくなってしまう前に、わたしは自分から飛び出した。
たくさんの場所を巡って、いろいろな人を知って。
走りだす前に、考えてみることだって覚えた。
悠然とした横顔のまま、心の中でだけ訊いてみる。
ねえ、あなたを好きになってもいいの?
「堅苦しいのは、やはりやめておくとしようかな」
セイロンは突然明るく言い放って、わたしの左手を取った。
冷えた手を握り締める彼の体温は、言葉とは違う熱を伝えて困惑させる。
「ゆくぞ、フェア」
ひどく懐かしい口調なのに、それはまるで初めての口付けみたいにわたしへと触れた。
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