かわいい人
独特の気合い声と、ブロックの砕ける音。
フェアは朝、セイロンは遅めの昼食を終えたこの時間に、それぞれ稽古場を使うのが日課になっている。
「何かね、店主殿」
熱中していても例の[気配]で察したのだろう、彼は流れるような動きはそのままに、声だけで訊いた。
邪魔してごめんね、とは、もう言わない。
「洗濯物。また枝にまで干したでしょ」
イスを持って行けば取れるけれど、このごろは素直に頼ることにしている。
セイロンは短い掛け声と共にまたひとつ砕いて、その脚を下ろす動作と一緒に振り向いた。
まるで型の一部みたいに、無駄がなくて綺麗だ。
「おお、すまんな」
切り株の上には、ブロックがまだひとつ残っている。
「はっ!」
フェアは彼の動きを真似て、それを蹴飛ばしてみた。
足には痛いほどの衝撃があったけれど、ブロックは切り株から落ちただけだ。
拾い上げると、ヒビも入っていない。
「あれ?」
歩き出していたセイロンが笑いながら戻って来て、フェアの手から切り株へと、その灰色の塊を戻した。
片脚を上げ、しばらく静止してから靴底で軽く突く。
蹴るというよりも、触れるといったほうが近い動きだ。
それでもブロックは真ん中から二つに割れ、乾いた音を立てて転がった。
両側の切り株には、元は同じ形だったとはわからないほど、粉々に砕けた破片が散っている。
「すごいね」
「なに、そなたはなかなか素質がある。良い師に就けば、このくらいは容易くしてのけるようになるであろうよ」
言いながらフェアの肩に手を置いて向きを変え、中庭の方へ強引に押して行く。
なんだか、話を打ち切りたいような態度だ。
押されて渋々歩きながら、フェアは頭上に揺れる赤い髪を引っ張った。
「じゃあ、セイロンが教えてよ」
途端、そんなに強く引いたつもりはないのに、彼は口をへの字にして足を止めた。
「我がそなたに、かね?」
「うん。だってあなた達人でしょ? 今自分でも言ったじゃない。良い師に就けばって」
手を解いて、振り返る。
解かれた手は行き場に困ったのか、一度下へ下ろされてから、いつも帯に差している扇を引き抜く。
まだ、怒ったような顔のまま、
「それはできぬな」
平淡な声音で言った。
こういう彼に会うと、フェアは色々な感情でいっぱいになる。
自分には、もう隠していることはひとつだってない。
それは彼も同じだと言ってくれたけれど、こんな風に応える彼の姿は、まだ御使いとして向き合っていたころを思い出させる。
真面目で頑なで、憎まれても勝目がなくても、ただこうと決めた道を真っ直ぐに突き進むだけ。
そんな彼を誰より好きなのに、馬鹿みたいだと思う自分もいる。
どうして我慢してしまうのかと腹立たしくて、それでも全部を手に入れたい欲ばりな自分の理屈は、きっと子供の我がままなのだろうとも思う。
「もしかして、一族以外には教えちゃいけないとか?」
泣きそうな顔をしてしまっただろうか。
「……ああ、」
扇を掌に打ちつけて、セイロンは歪めていた口元を、いきなり明るい笑みの形へ変えた。
「いや、これは言い方を間違えた」
冗談交じりの口調に戻ると、表情からも仕種からも、生真面目な性質はすっかり消えてしまう。
同じ人物なのかと疑うくらいだ。
つられて小さく笑ったら、
「できないのではなく……、」
今度は困った顔になって、
「教えたく、ないのだよ」
溜め息混じりに言う。
言いながら、決まり悪いのか扇を掌へ打ちつける動作を繰り返しているのが、なんだかおかしい。
「それってさ、言い直した方が悪くなってない?」
「むう」
フェアは、思わず声を挙げて笑った。
いつだったか、一泊してくれた夫婦の奥さんが、かわいい人、と相手を呼んでいるのを聞いた。
旦那さんは揉みあげから繋がるヒゲを濃く生やした体格もいい人で、 そんな表現は似合わないと、その時は思った。
けれど、今はわかる気がする。
セイロンは自分より背も高くて大きくて、気質も男らしい人だ。
それでも、こうして困っている彼のことを、フェアはかわいいと思ってしまう。
「……よかろう。では、有り体に話すとしよう」
諦めたように溜め息をついてから、セイロンは弄んでいた扇を帯へ戻した。
「武術にはいくつもの流派があってな。それぞれの技、奥義は優れた門下にのみ伝授されるものなのだ。我がそなたに教えるということは、そなたは我の門下に入るということになる」
「うん。つまり、わたしのお師匠さんになるってことだよね」
「そうだ。我とそなたは師弟の間柄になる。そこで、だ。我らの流儀が独特なことは、そなたも知っていよう。師と弟子というものも、こちらの世界とは少々有り様が異なっておるのだよ」
セイロンの話は、全く説明がないか説明が多すぎるかのどちらかだ。
例えば、と続けそうになった口元に、フェアは指先を押し付けた。
「もう。そういう前置きはいいからさ、もっと手っとり早く言ってよ」
「あっはっはっは。そなたにはかなわぬな」
口ではかなわないと言いながら、フェアが腕を引く前に素速く捕らえて、暖かな掌にすっぽりと納めてしまう。
「我らはな、師と弟子を、親子の関係と同じだと考えるのだ」
「それって、セイロンに武術を教えてもらったら、わたしはセイロンの子供になるっていうこと?」
「うむ。血の繋がりはなくとも、一度誓いを立てれば立派な父と娘だ」
声音だけは真面目だけれど、からかうように握り締めたままの手と、笑みを含んだ視線が気に入らない。
「ふーん」
生返事で応えたら、
「まだわからんのかね?」
セイロンは手を離したかわり、息が触れるほど顔を近付けて、
「親が子を娶るのは禁忌ではないか。 この地でも、それは変わらぬ定めと思うがな」
間近から覗き込んだ目をすうっと細めた。
「へ?」
「なんと。我をそれほどに軽薄な男だと思っておったとはのう。心外だぞ」
一瞬、何を言われたのかわからない。
ぼんやりしている間に、木の枝で陽の光を吸い込んだ布が頭の上へ落ちてくる。
やっと意味を知った時には、彼はもう裏庭の方へ歩いていた。
「セ、セイロンっ!」
「まあ、焦らずともよいではないか。我などほんの若輩にすぎぬのだし、本気で学ぶのならば、多くの流派を見てから決めるほうがそなたのためにもなろうよ」
斜めに振り返った表情は、いつもの鷹揚な笑顔だ。
偉そうで、うさんくさい人。
初めて逢った日、リビエルが彼を評してそう言っていた。
それも、彼の一部。
不器用なほど律義なのも。
たまに酷薄な振りをしたりもするけど、本当はとても仲間思いで優しいところも。
冷静に分析するくせに、意外と短気で熱血なのも。
かわいいのも。
全部、大好きな、大好きな彼の一部。
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