久遠ステップ

 

 風が強くて眠れないから、昼間リシェルにきかれたことを考えていた。
 恋する乙女シリーズの最新刊は、ヒロインが猫になってしまう話らしい。
 呪いをかけられたヒロインには一言だけ、人間の言葉を話すことが許されているのだという。
 あんたなら、なんて言う?
 夜の部の準備で忙しい時にそうきかれて、ちょうど彼女の近くにあったから「赤たまご!」なんて答えにならない返事をしたけど、真面目に考えたらどうなんだろう。
 許されるのは、一言だけ。
 それなら、危険を知らせるとか想いを伝えるとか仕種でも伝えられることじゃなくて、もっと言葉だけの、言葉じゃなくちゃできないことがいい。
 例えば、そう、誰かの名前を呼ぶとか。
 召喚術は、喚び出したものを名前で縛る。
 けれど名前の持つ力というのはリィンバウムに限られたことではなくて、例えばシルターンでも《真名》によって小さな妖怪を使役したりする独自の術があって、名前というのは最強の呪文なのだそうだ。
 仲間を、1人ずつ思い浮かべてみる。
 想像の中で、名前を呼ばれた仲間達は驚いたり困ったり、それぞれの反応を見せてくれるのに、今では一緒に過ごす時間が一番長いはずのセイロンだけは、ぼんやりとしていて、どんな顔をするのかわからない。
 どうしてだろう。
 彼はきっと日課の鍛練を終えて、木陰に腰を下ろす。
 繁みの中からいつも日向ぼっこをしている猫のかわりに、見慣れない白い猫が現れるのに彼は気がつく。
 わたしはゆっくりと近付いて、やわらかな草の上で彼を見上げる。
 よくそうするように手の平が下りてきて、けれどわたしは喉の下を撫でようとした指先からするりと逃げる。
 心外だ、という顔をする彼の姿は、ここまではとても鮮明なのに。
 セイロン。
 たった一度だけ声にすることができる言葉。
 彼の名前を呼んだ途端、表情は霞んで見えなくなる。
 驚く顔、困った顔、楽しそうな顔、からかう時にする目を細めた意地の悪い笑み。
 たくさんの顔を知っているのに、その中のどれが正しいのかわからない。
 どれも本当のようで、どれも違う気がする。
 もどかしい。
 もう勝手に決めてしまえと、彼がどんな顔をしてくれたらいいかな、なんて考えて、まっ先に思いついたのは悲しい顔だった。
 悲しい顔をしていたらいい。
 彼は、もう一度手を伸ばす。
 今度はそのまま、日だまりの温もりを含んだ毛並みを自由に撫でさせてあげる。
 彼は何度もわたしの名前を呼ぶけど、わたしはもう喉を鳴らすだけ。
 フェア。
 彼はわたしの名前をくり返す。
 思い詰めたような響きがわたしの中に満ちて、やわらかで暖かくて幸せなのに、どうしようもなく苦しくなる。
 フェア。
 そんな声で呼ばないで。
 本当に呪文みたいな、強すぎる感情を含ませた声。

「フェア」

 自分を呼ぶ声に目を開けると、部屋はまだ仄暗かった。
 飛び起きて上着をはおって、急いで扉を開ける。
「どうしたの? こんな時間に」
 声音は変な夢と混じって悲しそうに聞こえたのだとしても、彼はどうしてかわたしを名前で呼んだ。
 だから、開けた扉の向こうに立っていたのはいつもと少しも変わらないセイロンだったけれど、わたしの中のざわめきは消えてくれない。
「すまぬな、店主殿」
 ほら、今度は普段通りの呼び方をする。
 何かがおかしい。
「話をしたいのだが、よいかね?」
 起こしておいて、いいも悪いもないと思う。
 自分でもそう気付いたのだろう、彼は苦笑して、
「すまぬな」  
もう一度謝った。
「いいよ、べつに。どうせ変な夢にうなされてたところだったしさ」
 彼に続いて入った調理場には火が入っていて、お湯が沸いている。
 毎朝そうするように並べたカップへ紅茶を注いで、自分にひとつ、いつもの場所へ座る彼の前にひとつ置く。
 風は止んで、二人だけの部屋はやけに静かだ。
 早起きするセイロンは毎朝あの扉からわたしを起こしに来て、わたし達はここで一緒に朝ごはんを食べる。
 だから、べつにこうしていることは特別じゃない。
 それなのに今日に限って落ち着かない気分になるのは、寝起きのままで髪を結ってもいないからだろうか。
 そういえばいつもお仕着せの服ばかりだったから、部屋着とはいえ一応私服といえる姿を見せるのは初めてだ。
 流れ星を拾ってセイロンと出会って、メイトルパにまで旅をして、またここへ住み込むことになって。
 もう一年が過ぎたのに、今日が初めてだなんてなんだか不思議だ。
 すっかり慣れたと思っていたけど、本当はまだどこかで緊張していたのかもしれない。
 それに気付いてしまったことがなんだか恥ずかしくて居心地が悪くて、わたしは彼を急かす。
「話って、なに?」  
 それに、まだ耳の奧に残っている、あの思い詰めたような声を消して欲しかった。
「大事なことなんでしょ?」
 改まって尋ねたのに、セイロンはのんびりと紅茶の香りを楽しんでいる。
 軽く睨みつけたら、
「龍姫様がな、見つかったのだ」
昼の部のメニューを確認でもするみたいにあっさりと、非日常的な言葉を口にした。
「それって……」
 すっかり忘れてしまっていた。
 一瞬、その意味がわからないくらいに。
 自分のことを特に計画的だとは思わないけど、べつに無計画だとも思わない。
 将来について思い描くには、わからないことが多すぎるだけだ。
 響界種は、長生きをするのだという。
 でも、どのくらい長生きなのかはわからない。
 いつまでも若いね、と言われる程度かもしれないし、怪しまれてしまうほどいつまでも変わらない姿なのかもしれない。
 お母さんとは何度か会っても、なんだかきまり悪くてあまり話はできなくて、エリカのこともあるし、わたしの寿命はどのくらいか、なんてことは聞けなかった。
 今がよければいいと考えているわけじゃないけど、どうなるかわからないんだから、その時になってみなくちゃ決められないって、そう思っていた。
「じゃあ、帰るの? いつ?」
「すぐにでも」
 無計画なのは、セイロンだ。
 難しいことを言うのは根が真面目だからで、予測したり準備したりいつも冷静なように見えるけど、本当は何でもぶっつけ本番。
 根拠のない自信に満ちあふれているのは、きっと土壇場に強いからなんだと思う。
「まさか、今から?」
 なるようになるって思いつきや開き直りで行動して、無茶苦茶だって困らせるのはいつもわたしの方だけど、何もかもが変わってしまうくらい大変なことを突然言い出すのは、いつだって彼の方だ。
 龍姫様が見つかったら、シルターンへ帰る。
 わかってはいたけど。
 こんなに早く出て行くなら、もう少し。
 もう少し……なに?
「そのつもりだが、」
 空になったカップを置いたセイロンは立ち上がって、ポットへ二杯目のお湯を注ぎながら続ける。
「そなたが望むならば、ずっとこの地へ留まってもよいのだよ」
「そんなことできるの?」
「うむ、たやすいとも。龍姫様にセイロンは死んだとお伝え願うまでのことだ」
 普段通りの、偉そうで呑気で楽しそうで、深刻な事態も茶化してしまうような口調。
 悪い冗談にしか聞こえない。
「もう、真面目に話してよ」
「至って真面目ではないか。どうするかね?」
 そう言いながら戻って来た彼は満面の笑みを浮かべているから、やっぱり信じられない。
「だいたい困るじゃない、そんな大切なこと。わたしは決められる立場じゃないでしょ」
「それがそうでもないのだよ」
「え?」
 リシェルやポムニットさんは、いつもそんな話をしている。
 お母さんも聞かせてくれた。
 わたしだって、憧れがなかったわけじゃないけど。
「そなた次第と言ったのはな、我がそなたを愛しく思っておるからだ。身内として、仲間としてではなく、一人の男として、な」
 今この場所でこの人から言われたなんて、とてもじゃないけど信じられない。
 いつもと同じ口調と表情。
 言葉の意味だけがちぐはぐで、自分の耳がおかしくなったのかと思う。
 だいたい、今のは本当に告白だったのだろうか。
 告白のつもりなら、もっと気持ちをこめて言って欲しい。
 やわらかで暖かくて幸せなのに、どうしようもなく苦しくなるような。
 あの、わたしを呼んだ声みたいに。
「……セイ、ロン?」
 混乱していたわたしは、困っている顔に見えたのかもしれない。
 セイロンは彼独特の鷹揚な笑みを浮かべて、
「なに、返事はいらぬよ」
わたしをもっと混乱させた。
「ま、待ってよ! そんな一方的なのってないでしょ!?」
「今のそなたに答えなど出まい?」
 確かにその通りだ。
 今のわたしに答えなんか出せない。
 だってそもそも、彼がどこまで本気なのかがわからない。
 誰が聞いたって世間話にしか思えない声で愛なんて言葉を口にして、だいたいそんなことはあまり言いそうにない人物で、前置きも前振りも甘いムードも全然なくて。
 まだ話が始まってもいないのに、返事はいらないなんて一方的に終わらせられて。
 それで今のわたしには無理だろうって、無理で当たり前じゃない。
「そうだけど……子供扱いしないでよ」
「そなたは子供ではないさ。だがそう思うのなら、やはり子供なのだろうな」
「なによそれ」
 セイロンは、声を挙げて笑う。
 腹を立てたわたしは、ぬるくなった紅茶を飲み干して立ち上がる。
「店主殿、我らは様々な体験をした。共に戦い、命を失いかねぬ苦境も越えた。異界への長い旅もした。その繋がりは深く、けして消えるものではない」
 背中に聞こえる声音が少しだけ低くなるから、今になってわたしの顔は熱くなる。
「誰でも、少々の思い違いをするほどにな。今のそなたには自身の心が正しくは掴めまいと、そうした意味で言ったのだよ」
 言葉の最後は、ため息に似て終わる。
 初めからこんな風に言ってくれたら、ちゃんと会話が成立したのに。
 言われたことにも起こっていることにも、自分の気持ちにだって実感がわかなくて、
「いずれまた会う時にでも聞かせてくれ」
すぐいつも通りに戻ってしまった彼へ、
「またって、いつなの?」
わたしまでメニューを確認でもするみたいな口調になって尋ねる。
「そうだな。では、五年後に」
「五年後ね?」
「ああ」
 それきり、ほとんど交わす言葉はなかった。
 一度部屋へ戻ったセイロンは、けれど特に荷物を持っているわけでもないから、ちょっと散歩に出かけるだけみたいだ。
「気をつけてね」
「うむ、ではな」
 あっけなく。
 なんでもないことのように頷いて出て行く彼を、なんでもないことのように見送った。
 見慣れた後ろ姿が木々に隠れてしまう前に、
「セイロン!」
一度だけ呼び止めてしまったけれど、何からどんな風に伝えればいいのかもわからなくて、ただ子供みたいに大きく手を振ってみる。
 手を挙げて応える表情は、陰になって見えなかった。
 そしてやっぱり、 彼がどんな顔をしているのか想像してみても、どれも合っているようで違っているようで、正解はわからない。

2007.11.09 TALESCOPE